ラジオを井戸にする話
ラジオを聴くようになって、楽しみ方が変わったというか、純粋に楽しめなくなったと思う時が時々あります。
ラジオの中身の話と同じ、あるいはそれ以上に、自分のメールが採用されるか否かが気になって仕方がないというものです。
ぼくは一時期、洲崎西から離れ加減になりました。
確かに、洲崎西は、下ネタが好きなぼくとしては、非常におもしろく、破壊力抜群だと思いました。
なぜ離れたか。それは、「採用」に執着するようになってしまったからです。
「採用」を全く考えなかった、てさぐれ!ラジオものは非常に楽しめましたし、洲崎西もメールを送るまで、すごく楽しめました。
ただ、その楽しいものを井戸にしてしまったのです。
井戸があります。井戸には水が入っているもので、石を投げ入れれば、ポチャンと音が帰ってきます。
このたとえで言うところの、石がメール、音が採用なのです。
メールを送れば、採用というレスポンスが返ってくる。
そこにしか目を向けなくなってしまった。そういう時期ができてしまったのです。
洲崎西という井戸は、あまりにも深かったのです。
井戸の深さとはつまり、採用難度、あるいはメールの母数の量です。
深すぎる井戸は、音が鳴るかどうか、そもそも水が入っているのかすらわからない。闇に石を投げるようなものです。
なんのために石を投げているのか、石を投げる意味があるのか、そこばかりを考えていたことがありました。
しばらくして、石を投げることすらやめてしまいました。
石を投げなければ、井戸には用はない。
あんなに楽しく聴いていたはずなのに、「用がない」になってしまったのです。
今は、メールを送ることを諦め、忘れ、聴きはじめのころと同じ姿勢で聴けるように、少しずつなっています。
その逆に、浅い井戸があります。
りめいく!です。
まだまだ浅い井戸だと思います。母数の量も少ない、難度もそこまで高くない。
だから、石を投げれば音が返ってくる。その音が返ってくるのが楽しくて、何回も石を投げようとするのです。
だから、前のめりになって聴けるのです。
「養豚場からりめいく村に移住した」という言葉を口にした時期がありましたが、そういった経緯がありました。
それゆえに、今、最も待ち遠しいラジオは、りめいく!なのです。
決して、洲崎西が面白みに欠けるというわけではありません。むしろ、りめいく!よりも面白いと思っています。
ぼく自身が、クソみたいな姿勢をとってしまったがゆえに、面白いものを面白くさせなくなってしまったのです。
また、あのころのようにゲラゲラ笑えるときが、早く来るよう、自分のことながら願わずにはいられないと同時に、「採用」の呪縛にとらわれてしまったことが、悔やまれてなりません。